鎮座地について
郷土出身の偉大な詩聖、牧野茂(鉄篴(てつてき))が昭和14年に当宮に奉納した漢詩文に「東は太刀山の連峰を仰ぎ、北は日本海の蒼波に枕(のぞ)み、右に海龍湖あり、左に射水川あり・・・」と歌った。その景勝地が当宮周囲の風景である。万葉の昔、越中国守・大伴家持が「あゆの風 いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の 釣りする小舟 漕ぎ隠る見ゆ」と万葉集に歌ったように、奈呉の浦に面している。また、「湊風(みなとかぜ) 寒く吹くらし 奈呉の江に 妻呼び交わし 田鶴(たづ)さわに鳴く」と歌ったように越の潟(こしのかた)に隣接していた。奈良時代から海人の集落があり、漁業が行われていたことが万葉集から窺える。当宮は、その奈呉の地に、越中国守大伴家持が、宇佐八幡神を勧請し、奈呉八幡宮として鎮座された。この地域は、当宮の放生会に由来し、放生津と呼ばれるようになった。鎌倉時代の古文書に放生津(ほうじようづ)の名が見られ、鎌倉時代には地名として定着していたことが分かる。鎌倉時代に、放生津に守護所が置かれ、越中国の武家政治の中心地となった。鎌倉期以来、放生津は港町として栄え、近世に至っては、北前船の交易でも栄え、漁業とともに繁栄した。
家持が歌に詠んだ時代には入り江であった奈呉の江が、土砂の堆積で潟湖になった。潟湖は越の潟と呼ばれ、牧野茂の漢詩では海龍湖と歌われていた。その海龍湖が富山新港となり時代とともに変貌を遂げた。射水川も万葉集に歌われた川であり、現在の小矢部川である。万葉の昔より変わらぬ雄姿を見せるのが立山連峰である。立山からの日の出は美しい。初夏から初秋にかけては、立山から昇る朝日が、奈呉の海にきらめいて朝凪の海を美しく染めた。立山連峰と弧を描く海岸線と朝凪の海に出入りする船はこの地域の風物詩であった。現在は、その奈呉の浦も埋め立てられ、新湊漁港になった。新湊漁港の北東の埋め立て地には、帆船海王丸が係留され海王丸パークになっている。奈呉の浦にも時代の波が押し寄せている。