古伝承
当宮の由緒についての古伝承を要約すると「崇神天皇(すじんてんのう)即位の29年壬子(みずのえね)秋9月辛未(かのとひつじ)日、大田田彦臣が、4坐の神を祀った。その神は、宗像奥津宮神速田霧姫命(はやたぎりひめのみこと)、宗像中津宮神佐依日女命(さよりひめのみこと)、宗像邉津宮神遺津日女命(いつひめのみこと)の3坐と、もう1坐が布波能母遅久奴須奴命(ふわのもぢくぬすぬのみこと)である。この社を名古曽(なこそ)神社と称した。奈呉の浦や奈呉の江の奈呉は、名古曽を略して名付けられたという。」万葉歌人、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が名古曽神社を参拝したときに海辺の風景を詠んだ歌が伝えられている。ただし、この歌は、万葉集には載せられていない。高市連黒人は、天津日子根命(あまつひこねのみこと)の子孫で天武天皇から持統天皇の頃の歌人であるとされる。天武朝から持統朝の頃には、名古曽神社が鎮座していたことになる。
この古伝承によると、宗像の3神つまり道主貴(みちぬしのむち)を祀る神社があったことが窺える。もう1座の布波能母遅久須奴命は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と櫛名田姫(くしなだひめ)との間に生まれた御子、八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)と大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘、木花知流比売命(このはなちるひめのみこと)との間に生まれた神である。この伝承から、奈呉の海人たちが、宗像3女神、道主貴を海上守護の神として信仰していたのではないかと考えられる。また、道主貴は、比咩大神(ひめおおかみ)として宇佐八幡宮にも祀られている。布波能母遅久須奴命は、あまり祭神として祀られている例がないと推測されるが、素戔嗚尊の孫にあたる神であり、奈呉の海人を介して出雲地方との文化交流があったと考えられる。