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築山古老伝説

築山古老伝説は、当宮の創祀について物語っている。その内容を要約すると「当宮は、養老(ようろう)4年(720)、越前国守・多治比真人廣成(たじひのまひとひろなり)が創祀した。築山の四天王はそのことを伝えている。多治比真人廣成の多は多聞天王(たもんてんのう)、治は持国天王(じこくてんのう)、真人は増人であり、増長天王(ぞうちようてんのう)、廣は廣目天王(こうもくてんのう)を表し、多治比真人廣成の功績を後世に伝えるために築山に表象した。当宮の創祀は多治比真人廣成であり、大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)は、天平18年(746)宇佐八幡神を勧請し、社殿の造営を行った。」というものである。荒唐無稽な伝説と思われるかもしれないが、歴史を紐解くと興味深いことが分かる。

 多治比廣成は、越前国守であったが養老3年(719)に北陸道の按察使(あぜち)に任命され、越中国、能登国、越後国の行政も担当することになる。越中国の人々の暮らしぶりも視察したと考えられる。多治比氏は宣化天皇(せんかてんのう)の4世の子孫から始まる。宣化天皇は、継体天皇(けいたいてんのう)の第2皇子である。継体天皇は應神天皇(おうじんてんのう)の5世の孫であり、皇位継承のために、大伴金村(おおとものかなむら)らの豪族に擁立され越前国から大和朝廷に迎えられた。多治比氏と大伴氏との関係も深い。多治比廣成は、多治比嶋(たじひのしま)の5男であり、嶋の父が多治比古王(たじひこおう)、母は大伴毘羅夫(おおとものびらふ)の娘である。また、廣成の母は、中臣国足の娘であり、国足の母は、安曇大伴連麻呂(あずみのおおとものむらじまろ)の娘である。つまり、多治比廣成は、父方の祖母が大伴氏であり、母方の曾祖母も大伴氏の出身である。  家持の父、大伴旅人(おおとものたびと)は、和銅(わどう)7年(714)に新羅(しらぎ)の外交使節・金元静らを迎えるにあたり、外交使節一行が元明天皇(げんめいてんのう)に拝謁(はいえつ)する儀式に、左将軍として400余りの騎兵を率いて警衛する役職に就いている。その左将軍の副将軍として、多治比廣成が就任している。律令官人として、大伴旅人と多治比廣成との交流があったとことが窺える。

 このできごとの4年後、養老2年(718)に家持が誕生したとされる。最近の研究では、家持の実母は多治比氏出身であることがわかってきた。一般に、多治比嶋の4男、多治比縣守(たじひのあがたもり)の娘が家持の実母とする説が有力である。しかし、断定されたわけではない。 多治比縣守は、家持誕生の前々年、霊亀(れいき)2年(716)に、遣唐使に任命され、前年、養老元年(717)に遣唐使として唐に派遣されている。家持の誕生時期を考えると、むしろ多治比廣成の娘のほうが実母の可能性が高いと考える。いずれにしても縣守あるいは廣成は、家持の祖父である可能性が高い。また、廣成のその他の兄弟、池守や水守、廣足も家持の祖父の可能性はある。大伴家持にとって、多治比氏はゆかりの深い家柄である。つまり、家持は多治比氏を通して、宣化天皇につながりをもつ。さらには、應神天皇にもつながることになる。もし、多治比廣成が、家持の母方の祖父であるならば、家持は、祖父が創祀した神社をさらに発展させたことになる。

邯鄲 - 囃子方
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